倉敷の由来や、歩んできた歴史をご紹介します

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歴史探訪

岡山県倉敷市歴史探訪
倉敷市の概要
倉敷市は、岡山県南西部に位置し、瀬戸内海に面しています。同市の人口は約47万人となっており、中国地方において、人口規模では広島市、岡山市に次ぐ中核都市となっています。倉敷川沿いに立ち並ぶ白壁の町並みと、大原美術館が所在する一帯は、「美観地区」と呼ばれ、年間600万人以上の観光客が訪れる、岡山県下随一の観光名所です。一方、南部の水島地区は工業地帯で、日本有数の石油コンビナートを形成しています。また、農業・工芸品分野では、い草栽培が盛んで、それに伴う畳表・花むしろの生産が行われてきました。そのほか、玉島地区では桃の栽培、船穂地区ではマスカットの栽培がそれぞれ盛んです。

倉敷のあゆみ
今から約400年前の倉敷周辺は、北には福山を主峰とする連山、南には児島の山々、その間に大小の島々が点在する内湾でした。この立地条件より、海上交通の要路として、大いに繁栄しました。寿永年間(1182年〜1185年)のころ、源平の絵巻を繰り広げた水島・藤戸合戦では、制海権を確保するため、これらの島々が拠点として利用されていました。

太古から弛みなく流れ続けてきた高梁川は、沖積作用で広大なデルタ地帯を形成し、この地方が新田開発される要因となりました。戦国時代の終わり頃、かの有名な備中高松城の水攻めがありましたが、この時の堤防築造技術を応用して、天正12年(1584年)から翌年にかけて、宇喜多秀家が早島から高梁川河口に至る汐止め堤防を築きました。これにより、倉敷の母体となる新しい田地が開かれ、児島湾の新田開発が始まり、元和2年(1616年)から寛永20年(1643年)にかけて、倉敷・玉島周辺の島々は陸続きになり、漁村から農村に変わっていきました。

米の積出港となっていた倉敷は、寛永19年(1642年)に代官所が置かれ、天領となりました。池田藩・松山藩も内治に力を入れ、耕地を拡大したため、新田には綿・菜種の商品作物が増えました。一方、文化10年(1813年)頃から、野崎武左衛門が広大な塩田を開き、「塩田王国」を築きました。このころ、讃岐の金比羅大権現と共に栄えた由加大権現で、土産物の「真田ひも」が全国的に好評を得、内職的なものから発展し、現在の児島地区織物企業の先駆となりました。また、明治14年(1881年)に玉島紡績所が誕生し、翌年には下村紡績、明治22年(1889年)には、大規模な倉敷紡績所の操業が開始されました。続いて、明治24年(1891年)には山陽鉄道が開通し、倉敷発展の基盤となりました。

昭和3年(1928年)に市制を施行し、岡山県2番目の市となる、人口30,481人の倉敷市が誕生しました。 水島臨海工業地帯は、太平洋戦争後の昭和21年(1946年)に着工された農林省干拓事業によって、現在の基盤が形成され、昭和30年(1955年)からの工場誘致で、重化学工業地帯として脚光を浴びることになりました。そして地域発展のため、倉敷市・児島市・玉島市の3市は、昭和42年(1967年)に合併し、新倉敷市が誕生しました。

その後も合併・編入を重ね、平成15年(2002年)には、全国で30番目の中核市となり、東瀬戸圏の拠点都市として発展を続ける一方、往時を偲ぶ白壁の土蔵づくりの町並みは、「心のふるさと」として万人に愛されています。倉敷市は、新旧が調和した、「心身ともに健康で快適に暮らせる福祉の町」、「自然と文化のかおりを備え、豊かな人間性をはぐくむ教育文化の町」、「高い都市機能をもった活力ある中枢の町」として、豊かな市民生活の実現を目指しています。


倉敷の名前の由来
倉敷の由来は、幕府の直轄地になっていたころ、幕府の天領を管理する代官所が、備中・美作・讃岐に設けられ、物資の集散地や商業の一大中心地として発展し、倉敷川沿いなどの一帯には倉屋敷が立ち並ぶようになりました。それが倉屋敷=倉敷になったといわれています。


倉敷の歴史についてもっと詳しく知りたい人はこちら↓
倉敷市歴史民俗資料館
住所: 〒710-0833
岡山県倉敷市西中新田669 [地図を見る]
電話番号: 086-422-7239
開館時間: 9:00〜16:30
休館日: 月曜日、祝日、12月28日〜1月4日
入館料: 無料







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